ふたつの孤独


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私のいのちが果てるときには、土に還りたい。

土葬であれば直線的に土に還っていける。大きな生命の循環という還る場所。土葬社会とは私にとってその巡りが物理的に約束された社会であり、なんとも心の安らぎを感じる。

魂の永続や来世は、求めていない。

しかし、日本で死ぬ限り、これは望めないことだ。

切り離されている。
哀しみは深い。


死ぬ最期の日には、森でひとりで過ごしたい。

そのときになって誰かに会いに行ったり、なにかを伝えたいとは思わない。それでは遅い。

森のなかでほかの生命の鼓動を感じながら、肉体の最期の時間を味わいたい。

しかし、これも日本では叶わないだろう。やってできないことはないが、私のいのちが果てた後発見されたなら、不審死体であり、つまり通常ではあってはならない異常事態だ。


体力が残されておらず森に向かえないときには、住まいでひとりで最期のときを迎えたい。

しかし、これもまた「孤独死」として歓迎されないだろう。

それどころか、こうした望みを口にするのさえ憚られる。
社会が大切にするなにかを否定することになるのだろう。


誰かに看取られながら死に旅立つことを多くの人は望むだろう。それが叶わないことは苦しみであり悲しみだ。最期まで寄り添おうと、それを実現しようとする営みは尊い。そう思う。


けれど一方で、誰にも看取られないことは、不幸だと決まっているのだろうか。

私は、このわかられなさ、表現する余地のなさに、孤独を感じている